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1日いっぽ、もう一歩さきへ(開発教育・国際交流・ボランティア) > 2007年10月

公正社会,国際理解教材や研修,形式,方法,セミナー講座の紹介。ファシリテーター講師による演劇,ダンス,音楽,写真を用いた進め方、まちづくりやアートセラピーの手法も。毎日少しの積み重ねがいつか大きな変化につながりますように。

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折り鶴ボランティア

 ふっと、沖縄旅行のことを考えていて、鶴のことを思い出しました。

 小さい頃から、入院したお友達とか、おじいちゃんとかに、鶴を折って渡すという習慣が自分の中にあって、前回沖縄に行ったときにも、鶴折らなきゃって、せっせと一人で鶴を折ってました。

 おじいちゃんが亡くなったあとも、おじいちゃんのお家には、私が高校生のときに追った鶴が、まだ飾ってあって、それを見る度に、涙が出そうになります。

 沖縄で、南部のひめゆりの塔とかに行くかどうかは分からないけれど、でも、折り始めるなら今から折り始めないと、と思い学校の帰りに、文具屋さんで折り紙を買ってきて、今また、息抜きにせっせと折ってます。

 鶴を折るのは、本当に、癒されます。
 誰かのことを思って、心をこめて、こういうことするの、すごく好きで、素敵な日本の慣習だって、思います。

 またまた前置きが長くなりましたが、前回沖縄に行く前に、どうして千羽鶴が折られるようになったのかとか、何で千羽なのかとか、いろいろと、調べていたとき、折り鶴ボランティアっていうのがあるの知りました。

 難病の子どもたちや、広島・長崎などの平和祈念式典のときの鶴を折って送ってくれるボランティアさんを、いろんなところで募集してるみたいなんです。

 時間があるときに折ろうと思っていて、ついつい時間が過ぎ、2年もたってしまいました…。
 
 でもこれから、また折りはじめようと思います。

 あとは、弟にも。

 自分の「好き」や、「嬉しい」が、誰かにつながっていくということ、それが本当のボランティアなんだろうなって思います。

 また一つ、毎日の楽しみが増えました(*^ ^*)

ありがとうがいっぱいの誕生日

昨日は、早慶戦前最後の週末の六大学野球。

 対明治戦を見に行ってきました。

 早慶戦に顔を出せるかどうか分からないので、もしかしたら、私たちの知ってる代の子たち(4年生のときの1年生)の最後の球場になっちゃうかも…とのことでいっそう感慨深い一日でした。

 応援部は、1年生の4月から、4年生の12月までなので、まるまる4年間活動をし、関わる学年も、自分たちが1年生のときの4年生から、4年生のときの1年生まで、全部で7学年…。
 すごい縦のつながりがあるのです。

 そして、卒業してからも、3年間は、直接一緒に活動してきた子たちが、現役で頑張っているので、思い入れも、自分が現役のときみたいにとっても強いです。

 そして、同じパートだと、一緒に過ごす時間は、さらに増えて、本当に、家族みたいな関係。

 先輩たちにしてもらってきただけ、自分たちも後輩たちにしたいという思いが強くなってくるので、後輩の子たちを、目の中に入れても痛くないくらいに大事に思ってきました。

 そういう関係があるので、みんなで今の4年生を応援しに行きたいなって思って、フルート同期のあやちゃんと二人で、企画をして、H16年度4年生、3年生、2年生で、当時の1年生を応援に行ってきたのでした。

 説明が長すぎてごめんなさいm(_ _)m

 応援しながら、いろんなことを、考えました。

 現役のときには、気がつかなかったいろんな視点で、球場全体を見渡しました。
 
 学生席全体の応援が一つにまとまるように、いろんなところに工夫がされていて、やってるときは不満だらけ(笑)だったものも、今ようやく意味が分かったり。

 何よりも、前よりずっと「応援をすること」の意味がわかってきたような気がします。

 選手一人ひとりの細かなプレーを目で追って、一人ひとりの名前を呼んで、よかったところや頑張れってところを一回一回コールして。

 過去を美化したりするのは好きじゃないし、一人よがりにもなりたくないけれど、でも、純粋に好きで、応援させてもらえることにありがとうっていう気持ちを持って、一生懸命応援してる後輩の子たちの姿に、プレーしてる選手と同じくらい、ぱちぱちと、拍手を送りたくなりました。

 あと、両校の校歌をお互いに大事にしあうことだとか、旗を大事にしあうことだとか、マニュアル化しちゃってるじゃん、とか思ったこともあったけど、でも、きちんとそれが徹底されてたりすると、本当に外側から見たときに、感動する。
 誠意を持った対応だとか、現役当時、腹を立ててた(笑)ことも含めてすべてのものが、外から見たときに、いいなあって思ったり。

 とっても不思議です。
 形じゃなくて、その「心」。
 「心」をもってみたときに、はじめて意味をなすものなんだろうなあって、いまさらながらに感じました。

 そんなことを感じながら、球場をあとにしたあと、フルートのみんなでごはん会をしました。

 あやちゃんが、こっそり企画をしてくれていて、「予約したよー」って前々日くらいになって知ってびっくり…。
 
 さっきかえってきたお礼メールのお返事に、「フルート下級生からのお祝いはぴろが最も喜んでくれると確信してたから企画しちゃいました」って書いてあって、昨日もかなり号泣だったのに、そのひとことで、今日大学からの帰り、見たとたんに、また思い出し泣きです…。

 本当に、フルートのみんなが大好きで、たくさんたくさん支えてもらってきて、会うだけで涙が出てくるのです…。

 みんなお仕事や明日の球場、大学で忙しいのに、時間をとってもらって、ほんと、ありがとう。

 現役時代に感じてた「ありがとう」の気持ちに、どんどん気持ちが上乗せされていって、それが涙になって、今やってきます。

 弟が亡くなったときにも、本当に心の支えとなってて、かけてもらった言葉にどれだけ、生きる意味を感じさせてもらったか…。

 心のそこから、「ありがとう」って思えることは、本当に幸せです。

 そういう気持ちにさせてくれて、本当に、ありがとう。
 
 メッセージ、メールをたくさんいただいて、本当に本当に、どうもありがとうございました!

 素敵な誕生日でした☆
 

生活クラブ生協

 発表に集中しすぎたためか、ちょっと充電しないといけない感じなため、生活クラブの注文用紙を書いてました。

 今、うちは、生活クラブという生協の一つに入っていて、2週間に一度、注文用紙を書いて、毎回の配達のときに手渡しで配送員さんに渡しています。

 生活クラブは、食の安全性などの基準が高めで、また、六ヶ所村の問題、遺伝子組み換えの問題、日本の食の自給率、コミュニティづくり、食品添加物、農業のことなど、食と生活に関わる社会問題についての取り組みも盛んに行っていて、毎回毎回、届けられる情報に、たくさんのことを学ばせていただいています。

 友達で何人か、生活クラブを取っている子がいて、興味を持ったので入ったのですが、思っていた以上に生活クラブ率が高いのを、入ってから知りました。

 家に遊びに来て「パスチャライズド牛乳」というオリジナルな牛乳を認識できる人多し。びっくりです(笑)

 そのような取り組みの一つとして、生活クラブでは、毎月「生活と自治」という冊子が届けられていて、その中で、毎回いろいろな特集が組まれています。

 今回の特集は「風のすみか」という三鷹にあるコミュニティベーカリーのことでした。
 ここは、引きこもりなどを経験された方が、働くための第一歩を踏み出す場としてオープンしているとのことです。

 風のすみかについては、昨年大学院の授業のときにもちらりとお話を聴いていて、アンデルセンというパン屋さんが技術支援にも入っているとのお話をされていました。
 そういう形の支援について、いいな、と思った記憶があります。

 生活クラブをはじめて、変わったこと、良かったことは、こういう生活に密着したところから、社会を変えていくための取り組みを知ったり、参加したりできるきっかけを得られたこと、また、そうやって本当に自分のできることからこつこつと続けている方をたくさん知ることで、自分の生活を少しずつ、変えていくための自分なりの方法を考えるきっかけを得られたこと。

 自分の購買行動一つからでも日本の農業や自給率を支える方法ってあったりする。
 また、買い物にでかけても、フードマイレージ(つくられた場所からここに運ばれるまでのエネルギーのこと)を考えて、なるべく、住んでいるところから近いものを選ぶようにしたり。

 ちょっとずつの変化でも、積み重なっていったら、きっと大きな力になるはず。
 そういう人が集まったら、きっといろんなことが変わっていくはず。
 
 足元からできること、時間をかけて取り組んでいきたいこと、両方大事にしていきたいです。

 生活クラブも完璧ではなくて、やっぱり課題も抱えてるから、そういう批判的な視点も持ちつつ、選択したり、改善するために関わっていったりできたらいいなと思います。

人生の師

 今日はゼミの発表でした。

 修論の発表。

 気が張り詰めすぎていて、今終わって帰ってきて、ほうって息が抜けちゃいました。

 これからなんだけど、でも発表はパワーのいるものなのです。

 発表前は、どきどき、逃げ出したくなるくらいの思いをするけれど、でも、終わってみると、ほんと、感謝だなあと思います。

 自分の書いた文章を、伸ばそう、よいものにしようという視点、批判的な視点で見てもらえることなんて、本当にそんなに多くなくって。

 自分のめいっぱいの表現をそうやって見てもらうことで、一人よがりの文になってたり、甘かったりする部分をちゃんと指摘してもらえて。

 ライフワークとしての研究なだけに、やっぱり自分を振り返る大事な機会になります。

 最初は、本当にゼミがこわくて嫌で嫌で仕方なかったけれど、あるとき、ゼミの博士の先輩が、「修論って、相手が本気でやってくればくるほど、こっちも本気になるから終わったあとはどっと疲れがくる」って言ってたのを聴いて、すごくはっとしました。

 だって、他人の研究をよくするために、体つかってそんなに真剣にやってくれるなんて、普段の生活の中ではありえないことで、しかも、そうやって見てくれる先輩もいなかったらアドバイスももらえないわけで、本気で私のためを思って言ってくれる人がいる環境、本当に、ありがたいなあと思います。

 言葉には、ありのままの自分が出るから、自分の信念は、隠せない。
 だからこそ、苦しい時間でもあり、ありがたい時間でもあるんだなと思います。

 部活の先輩もそう。

 先生もそう。

 そんなことを思ったとき、自分に大きな影響を与えてくれた先生たちの顔がふっと浮かんできました。

 私の生き方に、かけがえのない、大きな影響を与えてくれた先生は今までで3人います。

 1人目は、小学校6年生のときの担任の道奥先生という先生。
 顔は、自他共に認める「やくざ」(笑)
 関西弁で、おもしろい人だけど、ほんっとにこわくて。
 ちょっとでも度が過ぎるとものすごい勢いで怒られて、それに抗議して、授業ボイコットしたこともあった気が…。

 でも、お子さんが重度の障がいをお持ちで、本当に、当時まだ教員でも理解している人は少なかったLD(学習障害)や、ADHD(注意欠陥他動性症候群)など広汎性の発達障害にもすごく理解があって、本当に子どもたちのいのちに対する限りない愛情を持っている先生でした。

 クラスに一人、やっぱりコミュニケーションの苦手な子がいて、みんながからかっていたとき、本気で怒ったこと。忘れられません。

 一時間使って、その子のことについて、話してくれたこと、クラスみんなでその子の側に立って、一緒に、成長していけるように、協力を求めたこと、忘れられません。

 2人目は、中学3年間担任を持ってもらった正夫先生。

 本当に、友達みたいな先生。
 私たちがもってもらったときは、本当にまだ若くて、生徒とおんなじ。
 ノリもいいし、かっこいいし、3年間もってもらった子は、すごくうらやましがられるくらい。

 でも、それだけじゃなくって、一番先生を尊敬してるのは、他の先生や地域の中で「問題」とレッテルをはられがちになっている子の本当の姿を引き出してくれる先生だったこと。

 校則は守らなかったかもしれない。
 夜中遊びまくってたかもしれない。
 おとなしい子から見ると、こわかったかもしれない。

 でも、「あいつら決して悪いやつじゃない」が口癖。

 徹底的に、その子たちと話し続けた先生。
 何かあれば、夜でもその子たちのもとへ飛んでいった先生。
 長くいても、どの生徒も平等に、親身になってくれる先生。

 何より、子どもたちを信じてやまない先生。

 「問題」としてしまったら見えなかったその子たちのあったかさやいいところをめいっぱい引き出してくれたから、私は、決して、その子たちに対して、嫌な感情を抱かなかったし、今でも、どの子を見ても、表面だけで判断することは絶対にない。

 こういう価値観は、弟からも学んだ部分、大きかったけれど、でもやっぱり正夫先生の影響は大きいなあ。

 教員になって一番やりたいこと=生徒指導・進路指導。一人ひとりの子どもたちのよさを、引き出していくこと、それぞれの子どもたちの持つ可能性を、引き出し、信じ続けていける場としての教師になりたい。
 こんな夢も、ここから来た部分が多いかも。

 3人目は、今の研究室の山西先生。
 かれこれ今年で5年もお世話になっております。

 今、本当に、先生ってすごいって思う。
 やっている研究分野が私のやりたいことにストレートに当てはまるというだけでなく、教育者としての姿勢に、本当に頭が下がります。

 教育を言葉で語れても、実際に、それができていない先生も多い。
 でも、先生は言ってることとやってることに、矛盾がない。

 どんなときでも、目の前にいる人に、めいっぱい真剣に向かい合おうとする態度。絶対に見捨てない態度。
 心から向かい合おうとしているか、形式だけかって、学生は分かるんだよね。だって、表情や、言葉の選び方、その場の持つ雰囲気、言葉以上に、それらすべてが表現するんだもん。

 深い愛情と、厳しい目線。
 本当に、尊敬です。

 同じように研究をしていても、人生における見方などまで一致するってことはそう多くないのに、すごく、すごく、価値観とか、近いものを感じる部分が多くて、本当に、「師」だなあって思います。

 広く世界を見つつも、地に足をつけて、目の前にあることを忘れない態度。
 人だけじゃなく、世界のすべてに対する慈しみを持った態度。

 私もそういう人になっていきたいです。

 こうやって、いろんなことを考えれば考えるほどに、今までの出会いがあって、今の自分があるんだということに気がつきます。

 一つひとつ、やってくることに、感謝しながら、毎日を生きていきたいです。

文字を覚えて夕焼けが美しい

懐かしかったので、タイトルにしてみました。

 これは、学部2年生のときの、山西特論(教育学特論2)で一番印象に残ったもの。

 戦争などによって、文字を学ぶ機会を奪われてきた人たちが、夜間中学や、識字学校などに通って文字を自分のものにしていく、その過程の中で、ある一人の方が、書いたものです。

 この回の授業は、本当に「はっ」とした気持ちと、共感する気持ちで、なんともいえない思いを持ったことをよく覚えています。

 今ブラジルで識字教育に力を入れて取り組んできたパウロ・フレイレという人の本を読み返していて、『自由のための文化行動』という本の後ろに、横浜の寿識字学校の大沢敏郎さんの言葉が載っていたので、そのことから、この言葉をはっと思い出しました。

 この「はっ」とした思いの中身は…

 「国際協力だー」って心のどこかで燃えていた自分に、「こんな身近なところにあることに気がつかないで、私何してるんだろう…」という衝撃。

 あと、自分が自分に自信を持てないときは、美しいものを見ても、本当に美しいとは思えなかったけれど、自分は自分でいい!と、自分をしっかり見つめて、向かい合えるようになってから、本当に美しいものを美しいと思えるようになったという自分自身の経験から…。
 すごく共感できたこと。

 この二つでした。
 ものすごーくよく覚えてます…。

 今でもやっぱり、この衝撃と、このことで自分の中に芽生えた思いは続いていて、自分の心のフックに、引っかかっているんだと思います。

 普段当たり前に使っている文字。
 当たり前すぎて、それがないことに気がつかなくなってしまっている文字。
 海外の識字率の問題などは、開発教育のワークショップなどでも取り入れられることが多くて、文字が読めないことで薬と毒と見分けられないというロールプレイや、市場で法外な値段を請求されるということは、よくアクティビティで取り上げられるもの。

 海外にはすごく目を向けてきていたのに、やっぱり、文字が使えることが当たり前という環境の中にあって、文字を奪われてしまっている人たちのことには、なかなか目を向けることはできていない。
 日本において「文字が読めない」ということを、想像することさえ、なかなかできない。

 たまに読み返しては、「はっ」を繰り返してます。

 文字、それは、物理的に、読めないことで困る場面も多くある。
 でもそれ以上に、文字を奪われるということは、自分を表現する手段を奪われるということ。
 自分をちゃんと、世界に向けて、発信していく手段を、得られないということ。
 文字を表現することで、客観的に自分を見つめなおすことができる。
 それは、フレイレの言葉で言えば、自分が世界に埋没してしまっている状態から、自分を客観視して、変革できる状態へと変化させていくこと。
 人が、尊厳を持って生きられるようにするために、なくてはならないもの。みんなが同じ位置に、立つために、持っていないといけないもの。

 海外に行ったときに、母国語じゃない言葉の環境で感じること。
 それは、自分を表現できない苦しさ。
 自分はちゃんと意見を持っている一人の人間なのに、その意見を上手に発信できる手段がないために、「意見を持っていない」とみなされてしまったり、ただそれだけで、無能であるかのように振舞われたりしてしまう悔しさ。

 意見、持ってるんだよ。
 こんなにたくさん。
 言いたいこといっぱいあるんだよ…。
 
 って。

 いろんな友達と話していて、みんなそういう思いを持っているんだなーって実感。
 だからこそ、分かる気持ちが、たくさんあるんだろうな、って改めて感じました。
 
 人の心に共感するためには、想像するためには、そういう経験があるとないとで、全然違う。

 英語が公用語として使われる中で、母国語じゃない日本に生まれて、こういう思いを経験できたこと、すごくありがたかったなと、今年の春、アジア学院(ARI)にて、校長先生の高見先生のコラム(アジア学院の英語は、優劣をつけるための英語じゃなくて、共に生きるための英語であるという内容のもの)というのを読みながら、改めて実感をしました。

 文字を、言葉を使うとき、ふっとそんなことにも、心を傾けていけたら、と思います。 
 自分が話せちゃうと、がんがん話したくなっちゃったりする部分があったりするけれど、それは言葉を過信しすぎで、本当のコミュニケーションを奪っちゃう。

 相手を本当に尊重するということは、その言葉にならないその人の存在そのものから、どれだけその人を感じ取って、大事にしていけるか、ということなんだよね。

 言葉になってなくたって、その人の存在価値は、まったく変わらない。

 美しいものを、美しいと思える権利。
 それは、居・食・住、それに、自分が自分でいることを認めてもらえる場所があること。
 つまり、自分が自分であってはじめて美しいものを美しいと思えるのだから、文字を学ぶことは、人が人であるための、最低限の権利。。。なんだよね。

 それをみんなが保障されるために。。。

今日のできごと☆

今日は、一日修論のために、本を読んでました。

 図書館が家の近くなので、お家がほぼ研究室にはやがわり。

 必要な文献やら資料やらがお家に散乱してます。自分のやりたいようにできるから、お気に入りの空間です。

 大田尭、イリイチを読み、今はまた改めてフレイレを読み直してます。デューイも図書館で借りてきて、教育哲学者週間になりそう…。
 頭痛くもなりそうですが…(^ ^;)でも、じっくり取り組めるのは嬉しいです。

 先人たちの知恵に学びつつ、一方で、将来英語の先生になろうと思っているので、思い立って教材研究もどきを、興味の向くままにしてみたり…。

 昨日の夜、ふっと思い立って、今日アルファベットの起源に関する本を借りてきました。

 子どもたちが、中学1年生で、一番最初に出会うアルファベット…。起源や、その音、一つ一つのアルファベットに込められた意味を知れたらおもしろいだろうなと思いつつ。

 漢字みたいに、全体で一つの意味をなすホリスティック(全体的)なものと、英語などのように、一つひとつのアルファベットに分解できて、そのそれぞれが意味を持つもので文化や思想、思考の仕方などが全然違ってたり。

 文化の違いとかを照らし合わせてみても、なるほど!と納得してしまうから面白い。

 AとかBとか、とってみても、どうやら音によって、「おおらか」「受容的」など含む意味も違うらしい…。

 おもしろいねえ。

 そんなこんなで、フレイレを読んでいる最中に、部活同期から連絡があり、今早稲田にいるとのことで、大隈講堂裏で、一緒にごはんしてきました。

 話してて、本当にいいなあって思った言葉が、

 「仕事は大変だけど、やらされてるとは思いたくない。毎日が休日にでもできるのに、選んで会社に行ってるのは自分。だからこそめいっぱいやりたい。」

 という言葉。

 あと、

 「自分のためじゃなくって喜んでくれるお客さんがいてくれるから、そのために頑張れる」

 っていう言葉。

 本当に、ずっと一緒に過ごしてきて、その姿や性格を見てきてるからこそ伝わる言葉で、そういう価値観に触れる話ができたことが、すごく嬉しかった。

 そういう真摯な姿が、人の心を動かすんだよね。

 心動かされて、また頑張ろうと思えたのでした。

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